自担のいない現場で気づいたこと。
突然ですが、皆さんにとって
「担当」とは?
この話題って一生話せますよね(わかる)。だって前もブログで書いたもん。
以前のこのブログでわたしは
担当とは、「魅せてくれる人」
と書きました。いやこれは全く1ミリも変わってないし、未だに魅せてくれる人が好きなのは当然です。でも、このブログを書いてからもなんとなくしっくりきていないというか。ちょっと綺麗事すぎる?と思ったり。見栄張ったかな?(それは越)
わたしにとって「担当」って、こんなにも綺麗な理想じゃなくて、めちゃくちゃ泥臭い"現実"だったという話。
先日、3人になったNEWSのコンサートに行ってきました。今まで「自担や推しはいないけど誘われたコンサート」に行ったことはあったけど、「自担がいなくなったコンサート」には行ったことがありませんでした(そりゃそう)。一緒に行った母と母の友人たちの4連で、見事にわたし以外はまっすーシゲけーちゃんの担当。自チケでアリーナ前列を引き、久しぶりに近くで見るNEWS。そこで初めて気がついたこと。
「わたし、周り気にしていないな…」
この前、こんなアンケートを取りました。
コンサートで近くに同担がいたら?
— 碧 (@tfkm444u_) 2021年4月20日
「気にしない、見ない」の人以外は、多少なりとも周りを見て、一応は確認するという結果に。
同担拒否は全くしない母たちでさえ「そこに増田担がいる」「ここの人けーちゃんだ」と話してるのを聞いて、大きな衝撃を受けました。
「ああ、この場に同担いないんだ。」
自担のいない現場で、「自担」の輪郭が少し見えた気がしました。
それとね。こんなにもずっと大好きなNEWSでさえ、もう新しい自担を見つけることはできないんだなあ、ということも実感しました。もちろん、手越が辞めたあとだって3人のことは変わらず大好きで、それぞれのいいところも大好きなところも、たくさん知ってるつもり。誰かを新しい自担にしても、それなりにおたくはできると思う。
でも、「手越担」として10年間生きてきたわたしには、新しい自担を作ることはとても難しいらしい。それは「手越より好きな人はいない」とかそういう話ではない。好きでは計れない「何か」が作用しているのだろうか。
もはや、担当とは「わたしの人格の一種」なのかもしれない。
そもそも自分が、自担を「担当」にした時のことを思い出してみる。それは「この人が好き」「この人のことを知りたい」「この人についていきたい」という、まあよくあるありきたりな感情が芽生えた時。更にわたしは「もっと前から好きな人に申し訳ない」「ぽっと出のペーぺーと思われて嫌われたくない」とネガティブな感情も湧き出てきます。面倒なおたくですね。
そして「この人が好きだと知って欲しい」「この人の好きなところを大きな声で叫びたい」「この人のことを喋る資格が欲しい」こんな感情が
"その人を「担当」にする"
ことに結びついているのかな。ネガティブなおたくは「あなたはこの人のことを喋る資格がありますよ」と認めてもらいたいのです。いろんな理由をつけて、いろんな事実を重ねて、いろんな言い訳をして、「わたしはこの人のことが好きなので、言及する資格がある」と主張したいのです。
そのための手段として「担当」を名乗る。
そうして勝ち取った「この人のことが好きだと主張する資格」は、よく知った「〇〇担」という"人格"をわたしに与え、それと同時に、それを主張することの"責任"を背負わせる。この人のことが好きだと確信した瞬間に、担当になる。だから、手越担としての人格を与えられたわたしは、今更3人のうちの誰かの担当をすることはできない。NEWSからいなくなってしまっても、既に作られた人格はそう簡単には変えられないらしい。
つまり、わたしにとって担当とは
「覚悟」だ。
「どれくらい好きなのか、本気なのか」を測る尺度として、「担当」を名乗る。
end